大辭典を世に送る

辭書には、事物内容の說明を主とする辭典 Encyclopedia と、言語形式の說明を主とする辭典 Dictionaryと、この二大別がある。我社は曩に事典として最も完備せる大百科事典を發行して江の絕讃を忝うしたが、今また更にその姊妹辭典として最も完備せる綜合大辭書刊行の大業を決意し、玆にその第一卷を世に送る。

 我國には、すでに量的にも、質的にも大且つ精なる二三の辭典が刊行され、何れも學界を益しつつあれど、國語學乃至一般學術輓近の進步から申せばなほ多くの滿たざれるものがある。近來文化の發展は實に驚くべく、精神界竝に物質界に關する人類の知見と思想とは、その深さと廣さに於て、往時と天地懸隔の差異がある。從ってこれを表現する言語もまた無限に變化し、或は從來の意味が變ぜられ、或は新しく創造せられる。試に日々發行の新聞を見よ、餘程の博學多識に非ざる以上は、その全面紙に登載せられたる記事を悉く正當に解釋する者あらざるべく、また言語それ自身にも、古今雅俗の變遷あり、故に古人の辭典を以て、現代人の著述を讀まんとすること殆ど不可能である。されば今日、學者敎育者は勿論一般文化層の人々の讀書硏鑽に於て缺くるところなからんための辭典としては、和漢古今雅俗一切に亙り、語彙が豐富で、多方的で、解說が簡明で、索引が便利で、而も學界輓近の硏究を悉く採入れ、專門術語、固有名詞までをも網羅綜合されたものでなくてはならぬ。

 本大辭典は、右の要求に應ふべく、語彙は、あらゆる文獻口碑よりすべて新に採集し、解說は一語一語全部新に專門諸大家の執筆を煩はし、索引は表音五十音順片假名に基準一定し、和語、漢語、外來語の古今雅俗一切、竝に專門術語、固有名詞にまでその採錄語の範圍を擴大し、一部にしてよく國漢辭書と部門辭書一切の用を兼ねしめ以て完璧無比の綜合大辭書たる實を具備せしめた。

 本大辭典の編纂刊行に當り、我が學界の諸權威が、その蘊蓄を傾けて欣然參加せられ、我社二十年來の念願を滿して玆にこの難業を大成せしめられたるを喜ぶと同時に、社内外の編纂調製關係各位の晝夜兼行的努力を謝し、滿點下諸彥の、さきに大百科に寄せられたる同じ支持と同情とをこの大辭典にも賜はらんことを希ふ。 

 昭和九年六月二十日 

 平凡社社長 下中彌三郞